第3回「小牧・長久手の戦い」

第3回『小牧・長久手の戦い』

目次

「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」ってどんな戦い?

 
ランラン

あのお山の上に見えるお城はなんだろう?

約50年前にお城のように建てられた「小牧市歴史館」っていう施設なんだよ。

ワイファイ
ランラン

それはびっくり!

あの山は小牧山って言って、豊臣秀吉と徳川家康が直接対決した「小牧・長久手の戦い」があった場所なんだって。

ワイファイ
ランラン

それは迫力(はくりょく)のある戦いだっただろうね!

でも決着がつかなかったみたい…。
よーし、じゃあどんな戦いだったのか学んでみよう!

ワイファイ

きっかけは信長の後継者(こうけいしゃ)争い

1584(天正12)年、現在の愛知県西部にあたる尾張(おわり)を中心に「小牧・長久手の戦い」が起こりました。

ことの始まりは、1582(天正10)年。明智光秀(あけちみつひで)が起こした「本能寺の変」での、織田信長とその跡継ぎ(あとつぎ)である長男・信忠(のぶただ)の死でした。天下統一まであと一歩のところで死んでしまった信長。次なる後継者を決める「清須会議(きよすかいぎ)」が開かれます。
しかし、信長の次男・信雄(のぶかつ)でも三男・信孝(のぶたか)でもなく、長男・信忠の息子・三法師(さんぼうし、のちの織田秀信(ひでのぶ))が選ばれることに。それは、まだ3才だった三法師の後見人(こうけんにん、代わりに指揮(しき)をする人)として、実権(じっけん)をにぎろうとした羽柴秀吉(はしばひでよし、のちの豊臣秀吉)の作戦通りでした。

その後、信孝は父・信長の家臣だった柴田勝家(しばたかついえ)と組んで秀吉と対立。1583(天正11)年に「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」で秀吉と戦いますが、あえなく負けてしまい、自ら命を絶ちます。

一方、三法師の後見人として安土(あづち)城に入った信雄でしたが、秀吉にまんまと利用され、城を追い出されることに。織田政権をほとんど自分のものにしてしまった秀吉は、さらに勢力を広げていきます。

信雄は秀吉の勢力が大きくなるのを心配し、父・信長が信頼していた徳川家康に助けを求めて岡崎城へ行き、同盟(どうめい)を結びます。一方の秀吉は、信雄の3人の家臣を手なずけてしたがわせようとしましたが、信雄はその3人を処刑(しょけい)。秀吉への宣戦布告(せんせんふこく)ともなるこの事件が、秀吉に信雄と戦う決意をさせます。

これが、小牧・長久手の戦いが起こったきっかけです。

小牧・長久手の戦いが起こるまでの流れ

① 勢力を広げていた織田信長とその長男・信忠が「本能寺の変」により死去

② 信長の後継者が、秀吉の作戦で信忠の息子・三法師に決まる

③ 不満をもつ信長の三男・信孝が、柴田勝家とともに秀吉と対立し「賤ケ岳の戦い」で敗北

④ 勢力を広げる秀吉が、今度は信長の次男・信雄を安土城から追放

⑤ 信雄が家康と同盟を結ぶ

⑥ 秀吉が信雄の家臣を手なずけようとしたことに信雄は怒り、その家臣を処刑

これが秀吉への宣戦布告となり、1584(天正12)年、小牧・長久手の戦いが始まる。

秀吉と家康が直接対決した唯一(ゆいいつ)の戦い

  小牧長久手の戦い_図

戦いは、秀吉軍と、信雄と家康率いる織田・徳川連合軍に分かれ、尾張・美濃(みの、現在の岐阜県南部)を中心に全国に広がる大戦となりました。

秀吉は、楽田(がくでん)城・犬山城(ともに愛知県犬山市)、織田・徳川連合軍は小牧山城(愛知県小牧市)に本陣(ほんじん)を構え、両軍にらみ合いに。

相手の出方をうかがう状況のなか、秀吉がねらったのは小牧山城ではなく、家康の本拠地(ほんきょち)である岡崎城(愛知県岡崎市)。家康が小牧山城に出かけ不在なことをチャンスと見て、約2万もの大軍を4隊に分け深夜ひそかに直線距離(きょり)で約50km先の岡崎城をめざします。
しかし、途中で家康に気付かれてしまい、小牧山城から追ってきた家康軍と長久手付近で戦うことになり、秀吉軍は大打撃(だいだげき)を受けました。

その後も、両者のにらみ合いは続きますが、なんと信雄が秀吉と条件付きで和解。戦いはストップしてしまいます。家康は「信雄を助ける」という戦いの理由がなくなり、仕方なく撤退(てったい)。戦いは終わりをむかえます。

秀吉軍に大打撃をあたえた家康は戦いには勝ったといえます。しかし、戦いに勝てないと感じた秀吉が信雄と仲直りするという作戦で戦いを終わらせたことは秀吉の勝ちともいえるでしょう。結局は勝ち負けのはっきりしない戦いになりました。

これが、秀吉と家康が最初で最後の直接対決をした小牧・長久手の戦いです。

 

史跡(しせき)公園として歴史をつなぐ

史跡(しせき)公園

現在、小牧山の一部は史跡公園となっており、桜の名所としても有名です。山頂にあるお城のような外観の「小牧市歴史館」や山の南側のふもとにある「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」では、小牧・長久手の戦いに関する展示などが見られます。
また、長久手の戦場は、「史跡長久手古戦場(古戦場公園)」として市民のいこいの場に。園内には入室無料の「長久手市郷土資料室」があり、合戦のジオラマなどが展示されています。

実際におとずれて、戦国時代へ思いをめぐらせてみてはいかがでしょうか。

※歴史的記述に関しては、諸説(しょせつ)あります。

ランランちゃんランランちゃんの
今日のまなび

  • 小牧・長久手の戦いは、織田信長の後継者争いがきっかけ

  • 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と徳川家康が直接対決した最初で最後の戦い

  • 対立関係だった秀吉と織田信雄が和解したため、決着はつかなかった

取材協力

小牧市教育委員会事務局 文化財課

小牧市教育委員会事務局 文化財課
愛知県小牧市の組織。民具や建物、遺跡や天然記念物など、大切なものを保護する仕事をしています。そのほか、小牧市歴史館、れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)などの施設の管理もしています。

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参考文献
・『図解 戦国武将別日本の合戦40』(東洋経済新報社)
・『読む日本の歴史―日本をつくった人びとと文化遺産5 戦国の世と統一への動き[室町~江戸時代初期]』(あすなろ書房)
・『特別陳列展示目録 小牧・長久手の戦い』(名古屋市秀吉清正記念館)

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